3月11日 子どもたちへのメッセージ(第十一回)の収録を終えて
今日は3月11日、あの未曾有の被害をもたらした東日本大震災からちょうど一年が経ちました。ですが、今なお震災で苦しんでいる子どもたちが多くいる状況に変わりはありません。その子どもたちへの思いをこめてお送りした今放送では、当時の水谷さんと浜田の状況について語り合いました。教育者と政治家として、それぞれどのような取り組みを行ってきたか、現在の被災地の復興状況などをさらに取り上げ、皆さんとこの一年間を振り返っていきたいと思います。
■当日の状況について
皆様、こんにちは。参議院議員の浜田まさよしです。本日は3月11日。あの未曾有の被害をもたらした東日本大震災からちょうど一年になります。
去年の3月11日14時46分、私はその時、横浜市南区の県立子ども医療センターに県会、市会議員らと視察に行っていました。小児科医療の現状について、問題が挙げられていたからです。揺れの後、急遽視察は中止になり、横浜駅に夕方着くと既に車が混雑で動けない状況でした。その後、2時間かけて歩き、自宅についた時は既に夜中になっていました。
水谷さんの方はというと、滋賀県の比叡山の延暦寺でTVの取材を受けていた最中だったそうです。その取材も急遽中止となり、水谷さんはその後すぐに京都市の災害対策本部に入りました。ともかく必要な物資を集められるだけ集め、10トントラック10台に乗せ、送り出す準備に遁走していました。
■逗子の子どもたちからのメッセージ
教育者として水谷さんはこの一年、どのような取組みを行ってきたのでしょうか。ここで逗子小学校の子どもたちのエピソードを紹介したいと思います。
水谷さんが被災地で活動を行っていることを知った逗子小学校の校長から、ある日水谷さんに依頼がありました。それは被災地や子どもたちの状況を逗子小学校の上級生の子どもたちに話してほしい、そのような内容でした。その講演が終わると、逗子小学校の子どもたちを軸に、自主的に物資を被災地に送り始めたといいます。ノート、鉛筆、消しゴム、かなりの数を集めてくれ、被災地の、特に宮城県の小中学校にGW前の早い時期に送りました。しかも送った物資のひとつひとつに手紙が付けられていて、「名前も知らないけれど、友達になろう」、このように書かれたメッセージが被災地の子どもたちの大きな支えとなったようです。
■ガラスバッジの普及
私は、議員になる前に経済産業省に長年勤めていたこともあって、今回原発災害対策の事務局長になり、毎月福島に訪問させて頂いています。当初は避難の方々をどうするかが先にあったのですが、数か月たってからは放射能の不安の声が何よりも大きく挙がるようになりました。
そこで私は「あるもの」を実現させることに成功しました。皆さんは「ガラスバッジ」というものをご存知でしょうか。放射能は色、臭い、音も一切無いですが、唯一、「計る」ことはできます。この計測器の普及を、子どもたちと福島のお母さまや県議会・市議会議員の皆さまからお声を頂き、早急に総理官邸に要請をして、9月には福島県下の28万人の15歳以下の子どもと2万人の妊婦さん全員に配布することができました。子どもたちはこのガラスバッジを見て、「お守りみたい」と言っていましたが、まさに思わぬ副次効果がありました。それは二本松市で高放射線マンション問題が起こった時、その実態が表面化されたのもガラスバッジで現地の子どもたちの3ヶ月間の放射線量を図り、ある中学生の女の子の数値が平均数値を大幅に上回っていたからでした。子どもたちの安心感を作ることを軸に、このような取組みをこの一年行ってきました。
■さらなる復興支援を
この一年、復興の為に活動を行ってきましたが、生活環境自体にまだまだ改善の必要があります。政府は復旧が進んでいるとしていますが、未だ33万人以上の人々が避難し続けている現状です。これは3月11日の3日後に発表された避難者数47万人の7割にあたります。このような多くの人々が仮設住宅に避難されている状況の中、例えばお風呂のお湯炊き機能がない、灯油の補充が一週間に一回しか来てくれないから寒い時でもストーブをつけられない、など十分な生活の対応がされていないという声を頂きました。
そのような現場の声が霞が関や永田町になかなか届いてこないと臨機応変に動けません。今回の震災で被害にあった子どもたちは苦しみを抱えながらも、家族の為に、大人たちの為にけなげに頑張っています。大きな声だけでなく、彼らのような小さい声にも耳を傾けて、一日も早い復興に今後とも取り組んでいきたいと思います。
「子どもたちのメッセージ」は毎週日曜日17:25~40 ラジオ日本AM1422Hzで放送中です。(→番組ホームページ)
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